快と不安

入院する出来事から1年経った。

 

全く違う人生、世界で生き始めた。

 

全てが正解で成功だった。

 

失敗の回もあったけど、それらを繰り返さない為に関係を絶ったり、それからまたうまくいってるから正解だった。

 

快と不安の病ってゆうのがすごくしっくりきた。

 

依存性に対する考え方や認識がまた大きく変化し成長した。

 

治る事はない、この文言は結構重たく捉えてた。

 

治る、ってなんなんやろ。

 

一生飲まない事?

 

欲求もなくなるほどの期間我慢し続ける事?

 

本当の回復や克服は何?

 

今の俺の答えは

 

飲んでもいい

 

がしかし、そこにある快を適切に感じ

 

その快に踊らされず

 

自分を失わない、呪われない、乱さない

 

でもこれって、判断基準は?

 

俺は克服した。

 

だからって明日飲むかといえばそうじゃない。

 

誰かを不安にさせ

 

誰かの気持ちに嘘をつかせ

 

そんなうちは飲んでも適量の快を得られない。

 

この1年、快を得る体験をたくさんした。

 

探しまくった。

 

素晴らしいレベルの快。

 

毎晩の至福の快と常習化してた快がすごく小さく感じる。

 

依存性になるかならないかの違いは

 

小さな快が他にもたくさんあるか、これについてはビリヤードやキャンプが正解だったな。

 

でもそこにも酒が含まれてた。

 

挑戦してるか。

 

不安への挑戦と、成功による快を得てるかも大きい。

 

仕事も関係するんやなってさっき気づいた。

 

小売業だと、毎日の目標に対しての実績があり、毎日努力に対しての報いが感じれる。

 

俺の仕事は1日しっかり接客したからって、その人が劇的に変わる事もなく、紹介につながったり、売上がドカンと上がる事もない。

 

辛抱、忍耐の仕事。

 

家族の気持ちに嘘をつかせず

 

大切な人達と楽しい時間を共有できた正月。

 

罪の大きさ深さがしっかりと分かる。

 

ただ俺が本当の自分に戻る為には必要だった10年間だった。

 

苦しく、悲しく、悔しい思い出が

 

俺を復活させ、成長させ、時間が動き出した。

 

この1年の挑戦は、挑戦し続ける1年にする事。

 

行ってこい、俺。