パッと過去の眠ってた記憶が蘇る瞬間がある。

 

ハワイの時に

 

何でや?とこっちが思うぐらい不思議な奴に誘われた。

 

しかも昼間。

 

ある程度の年齢になればだいたい夜のお誘い。

 

昼間にしかも男が俺を誘うとか、こいついったい何やと思いながらスタバへ。

 

しかもそんな特に仲良くはなかった、会ったら話すレベル。

 

そいつは一回大阪時代も、ミクシーで俺にメッセージ送ってきた変な可愛い後輩。

 

愛されてた記憶が次々と蘇る。

 

後輩から慕われて

 

もっと遡れば高校時代も遠征とかいけば常に俺の周りには同級生の首脳陣や、後輩連中がどっかいけと言わんばかりにいる。

 

俺、ええやつ

 

俺、おもろい先輩

 

俺、頼りがいがある先輩

 

産まれたての赤ちゃんの腸は無菌。

 

菌を求めて何でも口に一旦入れる。

 

その時期にどれだけ多くの菌を体内に入れるかで免疫が決まる、将来風邪ひきやすいかそうじゃないか。

 

心が無菌だった俺はみんなから愛されてた。

 

雑菌だらけの今の俺を愛する人はいない。

 

雑菌だらけの俺を愛する人は、除菌した後には離れる人もいる。

 

菌は繁殖し、蔓延する。

 

立ち直り、スタートラインに戻り、次のステップに進む

 

昭和から平成、平成から令和に変わったように

 

この10年がもう一つ過去になるのが怖く感じる感覚。

 

かといって戻りたくもない

 

進めば進むほど、いつかやられた時はひどくなる。

 

もう耐えられない、きつい、苦しい、立てない、尿意があるのにションベンも出ない

 

身体が内側から破裂しそうになる、笑えない、笑うなお前

 

全ての思考、全ての肉体的機能や能力の低下、歩くこと喋ることさえ

 

傍ら、もっと苦しめと思う

 

無菌だった頃の心が俺を守る

 

あれ以上苦しめさせないと

 

愛されたいと思わない、愛を探してもない

 

人を深く愛したいとも思わない

 

過去の俺が感じてたように

 

愛が深く強くなればなるほど、自分も相手も傷つく

 

カートコバーンを流行り感覚でカリスマ性に惹かれて語るやつとか、タイムラインにあげてるやつは見れば分かる

 

こいつはそうじゃないと

 

カートコバーンが好きな自分がかっこいい、そんな自分が好きなやつって

 

彼はずっと近くにいる

 

好きとかそんな感覚ではない

 

本を読んだ

 

生い立ちを知った

 

遺書を読んだ

 

立ち読みしながら涙がこぼれた

 

立ち去った

 

数年後その本を探して買った

 

2月産まれの彼

 

生まれ変わりかと若さ故に感じた時もあった

 

自分を無理くり重ねる時もあったけど

 

その本を読んだ時は

 

「あかん、もってかれるな」

 

とどれだけ言い聞かせても

 

自分のエゴや脳や心で制御する事もなく

 

感じること、言うセリフが重なった。

 

尾崎豊もそう

 

共通するのは鬱病、薬物依存。

 

行く末は寿命を全うする事なく死。

 

寿命を全うしたいと思ってた

 

今はそう感じなくなった。

 

いつか死ぬ、どう死ぬかはわからん

 

明日かもしれん。

 

いつか来るその日まで

 

描いてるビジョンをやる、とゆう試合に感じる。

 

そこで俺の力、能力、が初めて分かる時。

 

今は人にどう思われようが構わない

 

死んだ日に初めて

 

人に分かってもらいたい

 

あいつは間違いを犯した

 

でも生き方は間違ってなかったと

 

離れた人、失った人にはもう何もできない、しない

 

でも家族は失ってない

 

このブログの最初には、俺が見捨てた、失った、全て失ったと綴ってるけど

 

気持ち悪がられようが、不自然だろうが

 

俺はこれから家族を大事にする

 

近い存在やからこそ壁はある

 

生きた34年

 

34年何もできずしてこなかったけど

 

おかんが死ぬまでの数十年

 

たったひとりの息子のせいで授かった寿命を縮めるような事はしない

 

適度な距離感で